今日は、久しぶりのChoi boke World で、栃木県の益子町にある「独古山西明寺(どっこさんせいみょうじ)に遠征しています。これは、留守番役のブログです。残存するブログではNo.1400・・・1500まで行けるかな?
梅岩寺への下りを見送って、青梅丘陵を西に向かって歩き始めました。このハイキングコース展望はあまりないので、所々に山見の案内板があります。
これは、川乗山が見える場所。霞んでいて肉眼では見えましたが、カメラでは定かではありませんでした。
ここは富士山が樹間に見えるというのですが・・・・
ここも肉眼ではかすかに見えますが、カメラではこんな程度です。多分、画面から離れたほうが、感じられます。
橋が架かっています。尾根筋の橋というのは珍しいのですが、下は川ではありません。古い峠道なのです。「むらさめばし」ですが、叢雨橋と書きます。
右の写真は、南側の下を見たところです。次は北側。
下にある登山道のもう一つ下に、小曽木街道のトンネルが通っています。
橋を渡って、しばらく歩くと道は左にカーブします。曲がりきったところに、変なお寺があります。そこを確認してから、梅岩寺のほうに下る予定です。その寺の入口が見えて来ました。
入らずに進むと、こんなものが見えるのです。
お団子みたいな塔が分かりますか? ハイキングロードを歩いている人には、これは見えないですね。ですから立ち寄る人はあまりいません。有ることを知っているから、入り込みます。
「寺務所」でしょうか? 「大乗寺」の名札がかかっていて、郵便受も設置されています。回れ右すると、別の建物があり、その上に塔が見えています。真っ黒でよく分かりませんね。露出補正を忘れたようです。その建物の入口に、こんな表示がありました。「勤行中 問答無用」。いま、おつとめをしているから声をかけるな、ということです。では、黙って侵入します。
明暗比が大きすぎて、うまく写せないなあ・・・強力なストロボがほしいところです。
塔の下には、金色の観音様が祀られています。ちょっと仏舎利塔とか納骨塔という感じなのですが・・・ 由来を書いた銅板がありました。
「太陽聖髪塔」というらしい。これも、新興宗教というのでしょうか? 「太陽聖髪教団」という名前があります。生きている間に髪を切ってこの塔に納めるということですが、難しいことが書かれていてよく分かりません。教祖と奥さんのレリーフもついています。
このご夫婦が始められた事業なのでしょう。 もう一つ面白いものを見付けました。
中国からの伝来僧「無際大師」のミイラがあったと言うことなのか? いや、この僧は日本には来ていません。面白そうだ、調べて見よう・・・木瓜爺の好奇心が頭をもたげました。ブログを書くに当たって調べると、「無際大師」のWeb検索で、割合簡単に判明しました。
中国の禅宗の祖、六祖慧能の孫弟子である「石頭希遷(せきとうきせん)」という方が「無際大師」と呼ばれています。この方は790年に湖南省南岳というところで90才でなくなりますが、その遺体はミイラにされます。「即身仏」ということで、日本でも羽黒山にミイラがありますね。あれとおなじです。1911年、辛亥革命(清朝末期の革命戦争)が起こり、このミイラを祀った寺が革命軍によって焼かれてしまいますが、当時現地で大師の研究をしていた日本人、「山崎彪」氏が、即身仏を救出し、つてを頼って三井物産の船で日本に持ち帰るのです。山崎氏は「大師奉賛会」という団体を作り、このミイラを日本のあちこちで「御開帳」をしたそうです。その後、「大師奉賛会」のメンバーの一人「平野」さんが、昭和5(1930)年、ミイラを青梅市の山中に寺を建てて祀ります。この山は「石頭山」と呼ばれることになったようです。ところが、シナ事変・太平洋戦争という時期に、この寺が陸軍の結核病棟になり、平野氏が亡くなられて寺も荒廃してしまいます。即身仏は平野さんの息子さんが所有されていたのですが、戦後、それを知った松本昭という方が1960年に譲り受け、日本ミイラ研究会のものとして、早稲田大学に安置したとのこと。さらに、そのことを曹洞宗総本山「総持寺」が知り、再三再四、松本氏に懇願して、1970年に総持寺に移したのです。ですから、現在は総持寺で秘仏扱い・・・非公開・・・で、安置されているそうです。
塔の下の方にも平らな土地があります。ただ、下り道は荒廃しているようです。確かめるものは確かめたので、梅岩寺への下り口にもどりました。
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